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鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞
鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞

「北の大地で幼少期を過ごす」

 1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校が指導したクーデター事件が勃発し、犬養毅首相が射殺された。それによって政党内閣制に終止符が打たれることになる。かの有名な「5・15事件」である。
 この年の9月30日、石原慎太郎は父・潔、母・光子の長男として、兵庫県神戸市須磨区に産声をあげた。今から時を遡ること70年前のことである。
 弟・石原裕次郎はその2年後に生まれることになる。

 父は山下汽船という海運会社の社員であり、石原が5歳の時に北海道小樽市に家族を連れて初代支店長として赴任した。そのため石原は幼少期の約8年間を北の大地で過ごすことになる。
 当時の小樽は北海道のみならず日本全体として見ても、貿易港としての重要度が高く、商都として隆盛を極めていた。

「神奈川県一の名門校湘南中学に入学」

 その後、父は東京本社に転勤することになり、家族は神奈川県逗子市に移る。そして敗戦間近の1945年4月、石原は神奈川県鵠沼の湘南中学へ入学する。
 湘南中学は神奈川県一の名門校で、戦時中は海軍兵学校の予備校的な役割を果たしていた。そのため同級生には海軍高級士官の子弟が多かった。
 他の中学校の生徒たちは1年次から工場に動員されていたにもかかわらず、湘南中学は普通に授業を行っていた。その上、戦争の最中でも英語の授業があり、いわば「エリート養成校」であった。教師は生徒に「海軍士官」を志すことが至上のものであると教え説いていた。

「落ちこぼれの先駆け、一年間の長期休学」

 しかしながら敗戦を契機にして、石原を取り巻く環境はがらりと変化することになる。敗戦を迎え、石原は学制改革により新制「湘南高校」へ進学した。そこで石原は180度の価値観の転換を経験するのである。
 教師はその意味もよく分からぬまま、民主主義を説き、東大に進み「国の役人」になることを強要し始めた。その際、校長は生徒を集めて得意気に「これが我が校の出世頭だ」と当時の大蔵省理財局長を紹介した。
 石原はその現実を目の当たりにして、「なんてくだらない学校なのだろう」と思い、それをきっかけに学校離れも進んでいった。
 そしてついに1年間もの長期の間、休学をすることになる。
 以前から弱かった胃腸を理由にした仮病であった。それは今で言う「不登校」であり、「落ちこぼれ」の先駆けでもあった。慎太郎17歳の時である。
 石原はその時の気持ちを、
「ただもう学校にいくのがなんとしても嫌でならなかった」と書き記している。

 その頃、石原を捕らえて離さなかったものは、サンボリズムの詩やシュールレアリズムの絵であった。石原は絵を描き、芝居やオペラを観、真昼間から映画鑑賞に耽り、フランス文学が好きという理由からあてもなくフランス語の勉強をしたりしていた。
 その時期に描かれたものの1つに「16歳の自画像」という作品がある。鉄仮面をビスで止められたその不気味な姿は当時の石原の内面を反映しているように見える。

「父の死、迫り来る家計の破綻」

 1年が過ぎ、石原が復学を果たした頃、父が脳溢血のため51歳の若さで他界した。
 父は若い頃からの酒と過労が原因で常に血圧が高かった。妻が健康状態を気遣っても、「仕事で死ぬなら本望だ」と切り返すような人物だった。
 父の死を予期していたとはいえ、それは石原家の生活に大きな変化をもらたすことになる。大黒柱を失った家族はその後の生活のために節約を誓い合った。しかし、あまり経済観念のない母と弟・裕次郎の放蕩により、家計の破綻は目に見えていたものであった。
 弟・裕次郎が一晩に何千円という放蕩を繰り返しているのに対して、兄である石原は映画を観るための70円の額さえ、節約を迫られた。
 それまで石原は学校というものの退屈さとくだらなさにうんざりしており、大学などには進むことはないと思っていた。しかしながらその考えは父の死による家計の破綻を前にして、大きく変わることになる。

「公認会計士を目指し、一橋大学へ入学。しかし・・・」

 石原には新しい家長として母と弟をできるだけ早く養わなければならないという意識が芽生え始めていた。そこで当時できたばかりの公認会計士という職業に就くため、最も有利であると言われた一橋大学へ進学した。大卒の初任給が約1万5000円とされていた当時、公認会計士の給料は最低でも25万円が見込めるというものだった。
 新家長としての使命感から石原はその資格を得ようと勉強に努めた。しかし公認会計士という職業は全くもって石原には不向きであり、半年ほどでその匙を投げてしまった。
 石原にとって一橋大学の自由闊達な校風は、湘南高校に比べれば夢のような解放感があった。更に寮に入ったということもあり、石原は石原なりの放埓に身を任せるようになる。 
 そして家の財政に対する危機感も忘れかけていく。
 そんな生活の中、石原が考え始めたのは自らの将来の職業についてだった。公認会計士を諦めたものの、石原は一般的なサラリーマンになる気はさらさらなく、せめて自分の趣味を生かしてどこかの映画会社に入り、映画監督になろうと考えていた。
 しかしながら情報を集めてみると、監督までの道のりは経済的にも時間的にも厳しいということを知ることとなった。そうなっても石原は他に自らの道として希望を見出せる仕事を探そうとはしなかった。
 だが、その後、石原を時代の寵児へと押し上げる事件が起こる。
 『太陽の季節』の芥川賞受賞である。

「処女作『灰色の教室』の評価から次回作への執筆へ」

 石原は大学時代『一橋文芸』という大学の同人雑誌の復刊を目指すグループにいた。
 しかしながらそのための資金も原稿も集まらないような状態であった。
 石原はそのような状況下でも、自らが復刊を宣言した手前もあり、四方八方手を尽くし、資金を工面することに成功した。
 しかしながら最後の最後で原稿が100枚足りないということが発覚し、穴埋めのために自らがそれを書くこととなった。
 そこで書かれたのが石原の処女作『灰色の教室』であった。執筆は大学2年の夏休みに、友人の紹介により、長野県にある温泉旅館所有の一軒家を無料で借りて開始された。   
 その後、妙高高原にある大学の寮へと移り、さしたる労もなく『灰色の教室』は完成した。弟・裕次郎が放蕩生活で得た情報やエピソードを基にして書かれたもので、印象的な挿話を巧みに扱った一種の青春群像であった。
 石原はその作品を載せ、無事、雑誌の復刊を果たした後、すっかりそのことを忘れていた。しかし、しばらくして『文学界』の「同人雑誌批評」という欄で、評論家の浅見淵氏が『灰色の教室』を絶賛していたことを友人から知らされることになる。
 石原は浅見氏の評を読み、「この俺が注目すべき新人というなら、ひょっとすると俺は小説を書いて生活のできるような人間になれるのかも知れない」と漠と感じたという。
 そしてその予感こそが、石原を『太陽の季節』の執筆へと走らせていくのである。

「わずか二晩で書かれた『太陽の季節』」

 『太陽の季節』はわずか二晩で書かれた。
 そしてその後、校正を兼ねて念入りに3日かけて清書がなされ、計5日間で完成した。
 石原は『文学界』に原稿を送ろうと思っていたが、多くの応募原稿が集まることを予想し、その中で目を惹かせるために小さな試みを行った。作品の冒頭にボーヴォワールのサドの評論の中から作品内容にそぐう一文を抜き出し、エピグラフとして付けたのである。
 石原自身は『太陽の季節』について、
「裕次郎から聞かされた時、そのえげつなさに感心した話を基に据えた、若い男と女の逆説的な愛の物語であった」と書き記している。

「社会的事件、弱冠23歳で芥川賞受賞」

 そして事件は次第にその姿を見せ始めた。 1955年(昭和30年)石原は一橋大学在学中に『太陽の季節』で第1回「文学界新人賞」を受賞。同年12月にはかねてからの恋人であった石田由美子と結婚。そして翌年、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。

 これは社会的事件であった。
 弱冠23歳の学生作家が時代を先取りし、戦後新世代の風俗やモラルの提示を行ったのである。作中の一文、「勃起した陰茎を外から障子に突き立てた」が象徴する過激な性描写が、賛否両論の論議を巻き起こし、「太陽族」なる若者を出現させ、更には「慎太郎刈り」というヘアースタイルが流行になった。『太陽の季節』は新潮社より刊行され、瞬く間に25万部を売り尽くした。
 それは「もはや戦後ではない」と経済白書に記述された年であった。新しい時代の幕開けを誰もが望み、それを石原が切り開いたのである。

「政界へ進出、そして辞職」

 作家として世に出た石原はその後、参議院全国区に自民党公認で立候補し、史上初の300万票を得て国会議員となる。
 その四年後には参議院議員を辞し、衆議院議員選挙に出馬し、当選を果たす。
 1976年(昭和51年)には44歳の若さで福田内閣の環境庁長官に就任し、55歳のときには 竹下内閣の運輸大臣にも就任した。
 しかし議員勤続25年を機に石原は国会議員を辞職。
 一語一語を吐き出すように語られた辞職表明で石原は、日本のことを「国家としての明確な意思表示さえできない、さながら去勢された宦官のようである」と断じた。
 そして「現在の政治に対する国民の軽蔑と不信はまさに自分自身の罪科である」と、沈没の様相を呈し始めている国家という巨大な船に対して、何の手の施しようもない自らの非力さを詫びたのだった。

「半世紀に渡り、話題作を世に出し続ける」

 石原はその四年後の1999年(平成11年)に東京都知事選に出馬し、都民の圧倒的な支持を得て、政治の世界へカムバックした。2003年(平成15年)には前回の166万票の倍近い約308万票を獲得し再選を果たした。得票率においては都知事選史上、過去最高の70・21%を記録を樹立した。そして「東京から日本を変える」というスローガンを掲げ、更に大胆且つ過激に、停滞する国政に改革のボールを投げ続けている。その姿勢を見るに、石原は国会議員時代の責任を果たそうとしているように思えてならない。

 23歳で鮮烈なデビューを果たして以来、石原は国会議員、東京都知事と政治の世界へ身を投じるも、作家であることをやめることはなかった。デビュー以来、約半世紀に渡り、小説、随筆を問わず、話題作を世に出し続けているのである。
 現在、芥川賞の選考委員も務め、日本文学を見守ることへの強い情熱を見せている。

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