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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2006年12月4日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/

「情報氾濫のもたらすもの」

 先日東京の教育委員たちと懇談した折、委員の一人が最近久し振りにヨーロッパに長期滞在したが気づいて観察してみたらどの国においても中学生、高校生の年齢の子供たちで携帯電話を持っている子供を全く見掛けなかったと報告した。向こうの知人に質(ただ)したら、価格からしても、その料金からしても子供が与えられる小遣いではまかなえるものではなく、当たり前のことだといわれたそうな。この挿話は私にとってはきわめて印象的だった。

  日本の子供たちがなぜ携帯電話などという道具に偏執するのかはある視点からの分析が必要だろうが、さらに、携帯電話の普遍による便宜性が日本の社会に何をもたらしたかを考えるのも、今日の日本社会の歪(ゆが)み、歪(ひず)みを解明するに大事な手がかりと思われる。

 携帯電話とかパソコンといった現代文明の所産は通話による情報交換の便宜の末に、情報の氾濫(はんらん)をもたらしたといえる。その結果多くの人間たちは大脳生理学の公理になぞらえていえば、実がなりすぎて上部の大脳が肥大しすぎ肝心の幹である脳幹の発育が追いつかず、嵐が来たら上の重みに耐えきれず簡単に折れてしまうリンゴの木のように、過剰な情報を収(しま)いきれずに人間としての本質を失いつつあるような気がしてならない。

 子供たちの所持している携帯電話には規制の無いまま、売春や変質者の嗜好(しこう)に応えて容易に多額の金を手にする手引きまでが盛り込まれている。それらの情報は風俗の紊乱(びんらん)にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況は性愛に関していえば「体は手に入るけれど、心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の若い女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような兆候は、喪失以外の何ものでもありはしない。これは若い人間たちだけではなしに、総じて情報の氾濫に巻き込まれている人間たちを本質的に衰弱させてしまう。

 ある哲学者はそれを人間の本質的貧困化といったが、要するに、個人が行うべき情報の整理や分析評価を、それがあまりに過剰なためにその作業そのものをも他の情報に頼るという現象だ。その表象の最たるものは現代のメディアの報道の内容で、そのほとんどは報道の主体者たる記者自身の取材、判断、評価に依らず、あるあてがいぶちの情報に依るだけのことがほとんどだ。

 私は最近都のある行政に関して一方的な中傷に晒(さら)されたが、問題なのは確たる情報の精査や取材もせず、(私が直接取材を受けたのはただ一社のみ)ことの真意の曖昧(あいまい)なままに、ただセンセイショナルな報道を行ってしまうメディアの姿勢で、この件では2つの警告を行ったが、それで追いつく話ではない。現代メディアがいかに猖獗(しょうけつ)していようと、その実質はいかにも軽く薄く危ういものでしかない。

 首都大学東京准教授の宮台真司氏が面白い分析をしていたが、そもそも情報なるものは現実を希薄にしてしまう。第一に、情報は勘違いを難しくしてしまう。昔は勘違いだらけだったからこそ夢を追い試行錯誤があった。情報に依って、「どうせ現実は−」という容易な断念は人間の想像力を減退させてしまう、と。

 第二は、情報化は規範の輪郭を曖昧にしてしまう、と。昔は良いこと悪いことの境目がはっきりしていたが、今は昔は有り得なかった情報によって、例えば性愛に関していえば、スワッピングや乱交などという風俗が晒しだされ禁忌なるものが消滅してしまい、それを侵して超えるといった姿勢や行為の濃度が希薄となり人間の活力の低減に繋(つな)がっていく。

 第三には、現実を入れ替え可能にする、と。かけ替えない体験だと思っていたことが、「そんなものはよくあることだ」といなされ、素晴らしい女性だと思っていたのに「よくある女だよ」と水をかけられてしまう。

 つまり自分の感性や情念にのっとった決断や選択の、自らの人生における比重がごく軽いものにされてしまうことで、生きるということの中での、人間としての積極性が殺(そ)がれてしまう。これは人間全体にとっての損失以外の何ものでもありはしない。

 生きていく中での人生の不可知さ、未知なるものへの恐れや憧(あこが)れは、生きて自分にしか出来ないかも知れぬ試みを手掛けることでの満足、充実のよすがの筈(はず)だが、それがはなから疎外されていてはなべて「新人」の登場の余地などなくなってしまう。人生そのものが既視現象になってしまえば生きることそのものが無意味にさえ感じられてしまうだろうに。

 最近の芥川賞の候補作のほとんどが時流を読んでの一種のマーケッティングに依っているのも、その証しかも知れない。

 人間はさまざまな体験によって育(はぐく)まれ成長し、それぞれの個性、感性に依る試みを成就することで社会に対する己の人生の意味合いを感知し、さらなる生きがいを知り、新しい意欲を造成していくものだが、情報の氾濫が既知性で社会を覆えば社会そのものが衰退していくのは道理だろう。

 昔アレクサンダーやオグバーン、フロムといった社会心理学者たちが指摘した文化遅滞(カルチュラル・ラグ)なる公式、人間自身が開発し推進した新しい科学技術体系が逆に人間たちを大きく規制し、それに対する人間の適確な順応が有り得ぬ時、社会の崩壊さえが有り得るという警告に、真摯(しんし)に耳を傾けなくてはならぬ時代に至ったような気がしてならない。

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