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「宗教の無力」 |
以前イギリスの作家ラシュディの『悪魔の詩』なる作品がイスラム教への冒涜(ぼうとく)だとされイランの指導者ホメイニ師が彼の抹殺を命じ、作家は長らくその身を隠さざるを得なかった。そのとばっちりで、彼の作品を邦訳した日本人の大学助教授までが大学構内で殺されるという事件もあった。あの時私が感じたなんともいえぬ違和感を最近になって改めて思い出す。それは出来事への批判とか反発ではなしに、信仰者の信仰者故の尊大さの本質的な誤謬(ごびゅう)についてである。
ラシュディが冒涜したとされたのはイスラム教の預言者であるマホメッドをだということだろうが、もしラシュディなる作家が面と向かってマホメッドに同じことをいったとしても、マホメッドはその信徒に彼を殺せとは決していわなかったに違いない。
私自身は仏教に発した私なりの信仰を持っているが、ユダヤ教にせよそこから発したイスラム教、キリスト教にせよ、いわゆる一神教の唱える絶対性にはたじろがさせられることが多い。
カントは人間の特性として、高い山を仰ぎ深い森を眺めた折にその荘厳さの内に我々が感じる、崇高なるもの永遠なるものへの予感に発した神の存在への予感について、つまり人間に限られた信仰への可能性について記しているが、「我が仏は尊し」なる感情をはるかに超えた信仰における排他性は、一体人間に何をもたらすというのだろうか。
北アイルランドで長らく続いた激しいテロを伴った紛争は、いかに政治がらみとはいえあくまでキリスト教の中のカソリックとプロテスタントの対立が軸として在ったし、独裁者から折角解放されたイラクにおけるあくまで同じイスラムの内でのシーア派とスンニ派の血を流してまでの相剋(そうこく)は、同じ人間としての共感どころか理解にもはるかに遠い。
アイルランドにおけるあの悲劇に対してカソリックの大権威とされるバチカンが積極的に何かしたということを一向に聞かないし、プロテスタントにおける何らかの権威がどう和解、調整に努めたかについても知らない。
政治がからめばいかなる宗教の権威もことに力が及ばないというなら、宗教はその普遍化の過程で人間の救済について一体何を説くというのだろうか。所詮(しょせん)信仰は、政治を含めてもろもろの迫害の中でのその場しのぎの安らぎを与えることしか出来はしないのだろうか。
とすればまさしく、ニーチェがいったように神は死んだとしかいいようない。
相手を無差別に巻きこんで行われる自爆テロなる行為を、たとえその犯人たちが強い信仰の持ち主だとしても、いかなる神が祝福しその魂を救済するというのだろうか。
私は最近、敬愛した、仏の化身ともいえる特攻隊の母として慕われた鳥浜トメさんから密(ひそ)かに聞かされたいくつかの挿話を元に、かつての特攻隊の本当の姿を記録し残すための映画を指揮して作ったが、あの痛ましい犠牲は、戦争というまぎれもない極限状況の中で若い青年たちが、俗にいわれる天皇陛下のためなどという狂信ではなしに、家族など自らの最愛の者たちを守るということのために苦しみもだえながらも敢えて死んでいったことを伝えたいと思ったからだ。それは極人間的な自己犠牲であって、かつての特攻隊と今日の無差別な自爆テロとは絶対に、全く違う。
最近世界の天文学界は大騒ぎして太陽を巡る惑星の中から冥王星を外したそうな。人間によるそうした天体の資格づけが何を意味し何をもたらすかは知らないが、人間の存在の舞台であるこの地球という惑星で宗教がらみで行われていることを、いかなる信仰においてもその究極の対象である筈(はず)の、この宇宙の創造者である神はどんな気分で眺めているのだろうかと、ふと思う。
仏教の創設者である釈迦(しゃか)はその教えの中で珍しくも哲学を説いている。法華経なる経典の根源はああしろこうしろといったお説教でなくて「哲学」、つまり「存在」と「時間」についての考察であって、そこには驚くことに今日の科学がようやく解明した宇宙空間の有限の無限性や、我々人間が分だの秒だので換算している時間について、現代の科学がようやく立証した何億光年という時間と空間認識がとうに語られている。私が大学生の頃(ころ)現代数学で学んだ群論などで知った有限の無限、無限の無限などという認識がもっとわかりやすく説かれてもいる。
そしてそこからこそ輪廻(りんね)転生とか再生といった救済への信仰も有り得るのだと。
そうした素晴らしい知的遺産がありながらなぜ、世の信仰の指導者たちはそれを踏まえての人間の安定に腐心しないのだろうか。
漢詩の格言、『石火光中、蝸牛角上何をか争う』ではないが、宗教と信仰のもたらす排他性は実は人間の生命だけではなしに心までを蝕(むしば)み損なっているとしかいいようない。世界の宗教の指導者たちは己の無力をいかなる神に向かっても恥じるべきに違いない。

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