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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2002年11月4日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/
「少女の涙」

 二十五年前に誘拐され、決して本意とはいえまい結婚の後に心を病み、精神病院に入れられついには自ら縊れて死んだとされる痛ましい犠牲者横田めぐみさんの娘キム・ ヘギョンさんのインタビューの映像を眺めて、拉致被害者の家族や関係者、そして他の多くの国民からともに憤りをこめた意見が聞かれるが、私もあの放送を強い衝撃を受けながら見た。

 筋違いといわれるかも知れないがあの衝撃はある種の感動ともいえた。まだ十五歳のいたいけない少女が思わず滂沱と流すあの涙に私は心から感動させられた。世論の通りに、北朝鮮があのインタビューを許可したことには卑劣で狡猾な目論見があった ろう。しかし、事前に彼女が何をいいつかりいい渡されていたにせよ、彼女は激しい涙を押さえることは出来なかった。

 あの涙はいかなる政治の企みをも覆す真実の結晶ともいえる。いかなる告白や説明よりも、政治に引き裂かれた十五歳の少女の血縁への思慕という純粋な人間的感情の涙は、彼女とその母親を襲った悲劇の意味を直截に伝えてくれた。

 肉親と引き裂かれたすえ瞼の母の悲劇を自らも背負い、さらに血の繋がった祖父祖母の予期せぬ存在を知らされたあげくの、わずか十五歳にしては収いきれぬ衝撃にたじろぎ身をふるわせながら自分と血で繋がる肉親への思慕に耐えきれずに少女は、あれまでが北の悪辣な政府の思惑の内にあったのか無かったのか、あの滝のように溢れる涙をこらえきれなかった。

 そしてもし北朝鮮があの涙を予期して政治の小道具に使う魂胆だったとしたら、それは全く逆の効果をしかもたらさなかった。

 あの涙はいかなる劇をも超えて眺める者たちに理屈を超えてつらく切なくしみじみと身にしみる涙だった。肉親の死を迎えて悲しむ隣人の人間の条理の苦しみや悲しみを私たちは平常理解もし分かち合うことも出来ようが、しかし横田めぐみさんの娘が味合わされた悲劇の衝撃は、この現代に生きる私たちの常識をはるかに超えたものだ。 その思いの中で目にした彼女のあの滝つ瀬のようにほとばしった涙は、人間にとっての涙の本当の意味合いを教えなおしてくれたような気がする。

 あれはある女議員がちゃちな金銭の横領が発覚してその身分を失うことでの口惜し さで見せた涙や、多くの汚職について理の通らぬ弁明や強がりの末に、周りから責められやむなく離党した議員の擬態の涙なんぞの対極に在る本物の涙だった。

 我々から見れば、周囲の事情からしても自らの今在る立場を彼女がとても理解仕切 れてはいないだろうだけにいっそう、涙しながら健気に語ってみせる少女は限りな く孤独で痛ましく映った。そして彼女にそんな運命を一方的に与えた者が誰なのかを知れば、その犯人を憎まぬ者がいるはずはない。

 私が幼い子供の頃にはまだこの世に人さらいなるものがあり、さらわれた子供はサーカスに売られて曲芸を仕込まれ体を柔らかくするために毎日々々酢を飲まされるのだなどというまことしやかな噂もあった。そのため当時の子供たちにとって夜暗くなってから人気のないところでの遊びは禁忌だったし、子供自身も自粛していたものだ。

 それに野口雨情作詞の、『赤い靴履いてた女の子、異人さんにつれられていっちゃった、今では、青い目になっちゃって異人さんのお国にいるんだろ』、 などという寂しく空恐ろしい童謡まであった。まさしくその悲劇がこの現代、この国に起こっているのだ。

 政治が野蛮で一人勝手な目的をかざして突き進めば、往々多くの関わりない人々ま でを犠牲に供して顧みることがないが、我々の隣人である北朝鮮というグロテスクな独裁国家が国ぐるみで行ってきた拉致、殺人というあの犯罪、そしてそれを都合よく認めてみせた上での狡猾で厚顔な経済無心、さらに平行して企てている多量破壊兵器の開発製造による恫喝と脅迫を、悪夢ならぬ現実として認識するのに、あの政治的な囮として使われながらなお一人の人間としての感情を素直に晒して会見に応じ、あの滝のように伝わる涙を流していた少女ほど直截で象徴的な手がかりはあるまい。

 以前の会見の折に、横田めぐみさんのお母さんが誘拐されたまま生死も知れぬ娘のことを訴えるのに、ある意味で彼女はこの国を代表した犠牲者なのだということを理解して欲しいといっていたが、むべなるかなではないか。

 野蛮な政治の犠牲に供えられた死者を私たちは容易に忘れてしまうが、狂気に近い隣国の手で幼くしてその人生を奪われてしまった同胞が、ようやく残していってくれたいたいけない存在を、私たちは侵され失われかけた日本というこの国の象徴として取り戻して守り、はぐくまなくてはならないと思う。

 すでに発足した正常化交渉で、相手は今までになく焦りその経済的窮状をさらけ出 している。我々は数多くの同胞の人生を奪わしめた最高責任者が、ただそれを認めてみせたことだけをもって何の贖罪とも思うまい。この時点でのいたずらな援助や協力が、あの野蛮でグロテスクな国をそのまま存続させるものでしかないということを今しかと承知してかかるべきなのだ。

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