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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2002年10月7日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP  http://www.sankei.co.jp/
「ゲーム感覚の要」

 以前、まだ政治家になる前一緒に講演旅行をした司馬遼太郎氏が何かの折に、
「おかしなものやなあ、大方の日本人にとってはある種の観念の方が現実よりも現実的なんやから」、と慨嘆していたのを後になればなるほど強く思い出すことがある。

 司馬氏が嘆いた所以は、現実との乖離を無視してある種の理念に駆られた衝動がその結果にもたらす危害、損失についてであったろう。物欲に駆られた結果の損失ならば余人にも当人にも納得もいこうが、ある種の理念、観念に駆られただけの惨めな結末が一番たちが悪いともいえる。いかなる崇高な理念といえども、それはあくまで目的ではあっても決して絶対の前提たり得ない。この世の中では誰かが強く願望を唱えただけでそれがそのまま適う訳もない。外交を含めての国家の運営も同じことだ。

 その努力を左右する回りの状況は大方、自ら以外の他者が造成するものでしかない。その他者の中に自らとまったく同じ者が在る訳はない。そしてその違いこそが互いの関係を規定するのであって、その違いを踏まえてこそこちら側からの正統な主張もあり得るはずだ。

 先の南アフリカでの環境サミットを眺めても、実質会議をボイコットして首脳が欠席したアメリカは論外だが、出席した各国も環境保護という理念は共通してはいても、その主張はあくまでそれぞれの国の利益をかまえてのものでしかなかった。間もなく人類は絶滅するかも知れぬという致命的な命題を構えながらも、個々の立場の乖離はそれを超えることが出来はしなかった。それがこの世界の現実でしかない。

 ということを、他者との厳しい関わりである外交や防衛の問題の中で、なぜ多くの日本人は心得ることが出来ないのだろうか。それを証しだてる情報をすら目をそらし受け入れることを拒んで、いかなる現実を捉えられるというのだろうか。

 当局が立証し、それを上回る状況証拠が累積していながら北朝鮮による日本人の拉致などあり得ないとかたくなにいい続けてきた社民党、共産党系列の著名な政治家たち。アメリカがイラクと並べて北朝鮮を悪の枢軸と呼ぶ所以が、ミサイルにサリンを搭載してクルド族の多くを虐殺してはばからぬイラクに、唯一スカッドミサイルの部品を輸出しつづけている北朝鮮という事実を知りながら、それを伝えようとせぬ外務省やメディアはいったい何のため、相手についての国民の正統な認識を阻害してはばからぬのか。多くの、おそらく非現実的な種々思いこみのせいだろうか。あんな相手ともあくまで平和裏、穏便に解決を計りたいとか、北の宣伝をまともに受け入れ、相手を下手に刺激すればミサイルを射ちこまれ日本中が火の海に化すかもしれないと本気で考えているのか。ちなみに今もし北朝鮮が日本に向けてミサイルの引き金を引いたら、その瞬間彼等は世界からの制裁を浴びて崩壊するだろう。

 しかしその一方、あの国ではすでに四百万人の国民が餓死させられ、(当然その中には拉致されたままの日本人も含まれていよう)他の国民のための配給も医療の供給もすでに止まったままといった情報もほとんど伝えられぬままでしかない。故にも、常識で考えればいよいよ来るところまできてしまって、放っておけばもうじきに倒れてしまうだろう国家を相手としているのだという冷静な認識が一向に持たれ得ない。

 それは可愛そうだ非人間的だという声が今にもありそうだが、拉致事件の無残な結末をもたらしたあの国の政治体制に、この日本がいかなる責任を持つものでもありはしない。

 もしあの国を人間的な状況に再生させたいと願うなら、一番効率のよい方法はここしばらく相手を突き放し、よりすみやかな自己崩壊を招かさせるのが至当に違いない。今後の交渉を担当する外務省に、何でもいいから仕事をまとめて得点してみせたいなどという魂胆があるとするなら、それは国益を代表する外交当事者として無責任としかいいようない。必ずしも国際関係のすべてをゲームと割り切れとはいわぬが、しかし戦後の日本人の多くが国と国との関わりがそれぞれ異なる利益と思惑をカードとして手の内にした、実はゲームによく似た際どい勝負だということを正しく意識せずにきたのではないか。

 そんな世界の常識からすればまさに滑稽、非現実的な日本の外交姿勢はせいぜい侮辱の対象となるか、さらに足元につけこまれ、水爆を開発しているシナに今なお膨大なODAを貢ぐといった結果にしかなりはしない。みだりに国債を発行し続けて子孫に膨大な負担を残すことには無神経な政治も、こと外国相手となると訳のわからぬ理念の強迫観念に駆られて、最初から手の内をさらけ出してかかり、人命までを含めて空恐ろしい犠牲を自らに強いてきた。

 例えば日本での遊興のためにハーレムを従えて何度も不法入国しついに逮捕された金正日の息子の金正男を、ただただ怖れて、外務省の役人までつき添わせそのまま送り返してしまう体たらくは、実は国交正常のためになら、拉致された同胞を無視してもいいのだという外務省高官の言動に帰結している。

 理念を観念なるが故に否定するものではないが、そのためにいたずらに払う損失の補償をいったい誰がしてくれるというのだろうか。今回の拉致犠牲者のむごたらしい運命を見せつけられるにつけ、北朝鮮との関わりの過去からの経過を眺めなおせば、我々はもう少し他国との交渉の中でのゲーム感覚を持ち直すべきではなかろうか。

 それは日本を見事に彼等の金融奴隷に仕立てたアメリカに対しても、シナに対しても同じことだ。

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