 |
「起き上がる獅子」 |
目くるめく太陽の下で敗戦の詔勅を聞いた八月十五日がまたやって来る。
信長が好んで謡い舞ったという「敦盛」の名文句に、「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごときなり」とあるが、六十年前の敗戦から今日までの日々を思い直すとまさに夢幻のような気がしてくる。
いや、さらにその以前の太平洋戦争が始まるまでに、子供ながら味わわされたあの緊張感。そしてついに開戦、思いもかけぬ連戦連勝。と思っている内あっという間に形勢は逆転し、中学一年生ながら勤労動員されていっていた農村でなぜか身震いしながら聞いた、広島に投下されたという敵の新型爆弾の絶大な効果。原爆の茸雲の噂はたちまち届いてきて、その形からして当時の写真屋が使っていたフラッシュの煙からの連想で、何やらマグネシュームを使ったとてつもない新兵器らしいということだった。
そして降伏の瞬間から、本土決戦による「一億玉砕」は呆気(あっけ)なく「一億総懺悔(ざんげ)」と変わり、神と信じられていた天皇は人間に戻り、荒野に似た焦土の中からの復興が始まり奇跡に近い経済復興がなしとげられていった。この半世紀余、我々は中世においてなら二、三百年かかったろう変化を享受してきたといえそうだ。そしてそれを我々の誰が予測し得たことだろうか。しかしなお限られた識者は今日のこの日本について的確に予見してもいた。高度成長が端緒についた佐藤政権の頃、ノーマン・カズンが日本を「無脊柱の巨きな動物」と評していたのを私はなぜか強い印象で覚えている。
長い歴史を通じて初めての敗戦といういわば処女体験に懲りて、この国は自我という背骨を失ったままできてしまった。新しい為政者アメリカへの盲信と依存は、時間的空間的に狭小となった今日の世界の中での自己主張を失わしめ、他の国々に比して多くの優れた可能性を持ちながら他国からの敬意を獲ち得ることがなく、むしろ侮りをさえ招いている。今日の日本に対する中国や北朝鮮の理不尽極まりない姿勢と、それに対するこの国の無為さ加減を世界は何と見ていることだろうか。
私は先般、アメリカのある外交専門誌から三十五年後の日本という国家の変化についての予測を依頼され小論文をものしたが、先方の依頼の主旨は、この激しい変化の時代に、三十五年という中未来に、よも日本という国が今日のような体たらくで在りようはあるまいということのようだった。私もそう思うし、そう期待もしている。
がなお、もう一方では極めて悪い予感もある。二、三年前のニューズ・ウィーク誌の表紙はなぜか拡大された星条旗だった。しかしよく見るとその最後の星は小さな日の丸だった。しかし今私としては、さらなる悪い連想で、同じ予測として、もう一つの星としての日の丸をあしらった中国の五星紅旗を思わぬ訳にいきはしない。
共産党の独裁政権は、自己保存のための常套手段として行う軍事拡張による覇権主義を、日本との連帯でアメリカがどこまで本気で阻止し得るかは近未来における世界の大命題となるに違いない。そして、相対的な実力を失って行くアメリカもまた、自己保存のためには日本や台湾を容易に失い得るだろう。
近い将来日本が晒(さら)されるだろう軍事的危機は、かつての冷戦構造下のヨーロッパの比でありはしない。現に我々はテロ国家北朝鮮によって百人を超える同胞を奪われ、その奪還のために全く何も出来ずにいる。正式な条約の下に返還された固有の領土沖縄を中国は自らのものと主張しつづけ、領海の資源開発に手をさしこんできているのに我々はその阻止に何も出来ずにいる。
政府はこうした事態に対処するに、しきりに冷静な話し合いをと繰り返していうが、相手が行っていることは決して冷静なものといえはしまいに。
近い将来我々は自己保存のための手立てを選ばぬ非常識な相手と、ある犠牲を伴った関わり合いを持たざるを得ないのかも知れない。その精度は疑わしくもあるが、北朝鮮は同胞の拉致に対して我々が経済における制裁を行えばこの国を火の海にしてみせると豪語して憚(はばか)らない。それに対してこの国は、やれるならやってみよ、その先お前たちがどうなるかを考えたことがあるのかとさえいい返すことが出来ずにいる。
先に引いた外交専門誌からの依頼への私の答えだが、この国が三十五年先の中未来に強力な防衛国家として在るための前提に、我々は中国や北朝鮮という国際常識を欠いた国家たちとの関わりで、軍事的、あるいは経済的犠牲を甘受しなくてはならぬのかも知れない。そしてそれに耐え、それを跳ね返す力を我々は悠に備えているということを知り直すべきに違いない。
岡崎久彦氏のかつての名言、「日本こそが眠れる獅子」であるということを我々は、我々自身の世界における相対的な位置として知り直す必要がある。この国はそろそろ、力ある獅子として起き上がる歴史の季節にさしかかっていると私は信じているが。

|