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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2005年1月3日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/
「価値をいかにして伝達するか」

 昨年末テレビで恒例の『忠臣蔵』を観、定例の涙を流した。演じられているどれも心にせまる挿話は『隣の殿様』にしろ、大石内蔵助と遙泉院の最後のやり取り、箱根での大石が名乗る偽者の垣見左内と本物との出会いにせよ、多分皆赤穂浪士の吉良屋敷討ち入りの後に出来た作り話に違いないが、そのどれもに当時の人々のあの出来事ヘの共感があふれている。

 それは『生類憐れみの令』などという俄(にわ)か仕立ての倫理観で国民を規制しようとした幕府の思惑などを超えて、人間の最も根源的な価値観を確認して伝えるという庶民の強い情念の発露ともいえるだろう。彼らが幕府の権威を超えて認めた価値とは、献身の貴さ、自己犠牲の美しさ、誓いを通じての人間相互の信頼、それに裏打ちされた重い責任の履行などなど。忠臣蔵の感動はそれらのものの尽きせぬ味わいに違いない。

 そしてそれらは、国家社会の人間相互の関わりに依る存続のために不可欠な、垂直な、というより時代や世相を超えて在るべき鉛直な価値に違いない。しかし現今の日本社会の諸相を眺めるとその喪失が色濃く感じられる。と思う者には、いまなおそれらの価値への信奉が保たれているのだろうが、ならばこれはただの慨嘆ですむ事柄ではなさそうだ。

 頻発する子殺し、親殺し、幼児殺し、集団自殺、未曾有な異常犯罪。それらの出来事の根底に在るものが一体何なのかを我々は正確に把握する必要がある。それは文明の過度な成熟がもたらした人間への疎外、いい換えれば人間の本質的な衰弱の所産に違いない。

 今日ほど人間が肥大化した時代はなかったような気がする。その意味は人間が願望本意になってきたということ、つまりただ自己本位ということだ。故にもそれらの行為はいたずらに衝動的であって、その願望を制御するもろもろの正当な意識の働きが欠落してしまっている。

 東京都が青少年健全育成条例の改正にあたって青少年の実態を調査しなおしてみた結果、例えば義務教育課程に在る少年少女の基本的な価値観の歪(ゆが)みや欠落には改めて呆然とさせられた。倒産閉店にまでいたる被害を生んでいる繁華街での若者たちの万引行為について、常習の少女たちは平然と、繁華な街でこそ在り得る刺激のためだといい切るし、最低限の教育も受けず本質的な知識を欠いたまま行われる性戯の氾濫は、先進国で日本のみ唯一のエイズの増加を許してしまっている。

 彼らの意識では、性行為は異性に対する恋愛感情を必要条件とする行為とは全くたりえない。友情どころかただ近親のきっかけを掴(つか)むためだけの行為としてだけ在り得てしまう。故にもある少女にとっては、自分の物欲を満たすという彼女の最高、最重要な目的達成のための安易で有益な手立てとしてしか在り得ず、そのために行う売春には彼女なりの歴然とした正当性があって対世間、対家庭、対自身へのひるみや後ろめたさなど全くない。

 加えて文明進展の所産として堕胎に関する、医療技術の進歩は従来の手段に代わる極めて安全で簡単な手法を提供するようになり、妊娠わずか二週間後での確認の後母体にほとんど危険をもたらさぬ胎児のバキュームによる除去という手段で、体は元の白紙となってしまう。妊娠の恐怖が根絶された社会で安易な性の氾濫は加速度的に広がっていき、その皮肉な結果として若い世代での男の子供たちの不能に繋がる萎縮(いしゅく)が蔓延している。

 こうした現象は一種の文明的倒錯に違いないが、それに便乗しかつての左翼崩れのような手合いが、ジェンダー・フリーとか称して若い世代での男女の積極的な同質化を「進歩」と唱導したりしている始末だ。

 人間の欲望や衝動にはいろいろあり、すべてものごとは度合いの問題だと心得ているつもりだが、昨今の日本の社会の露骨な出来事は何かのタガが外れてしまったことによる、個々人の極端な肥大化現象に起因するものと思う。それは丁度、テレビや雑誌の報道でよく目にする、体に悪いとは思いながらどうにも止められずにジャンクフードに手を出し続け、醜悪を通り越し、危険なまでに太って自分一人での歩行が困難になってしまった人間たちに酷似している。

 こうした状況の中で、次代を担う子供たちに人間にとっての根源的な価値についていかに伝達するかを、真剣に考えなくてはならぬ所まで私たちは来てしまったと思う。

 しかしそのための当然の場として在ったものが今ではすべて崩壊しかかっているのだ。義務教育の場として在った学校は、ゆとり教育などという本質的な錯誤を犯した文科省の痴呆的指導の下で弛緩(しかん)してしまい、義務教育の課程にありながら放漫に堕した生徒やその親たちは、心ある教師の厳しさに反発しそれを弾劾しさえする。

 一方しつけや教育の学校に優る場であるべき家庭は、当節の若い親たちが親である前に個人として自己中心化してしまい親としての責任を放棄して、しつけという基本的価値の伝達を到底行い得ない。代わりにある親たちは容易に自らの幼い子供を殺してはばからない。

 ならば義務教育の最終課程の中学、あるいは高校の頃に、せめて半年間くらい、彼らに消防や警察、あるいは介護といった責任を伴う奉仕で他人とまみえる経験を制度として強いることくらいは講じなくてはなるまいと思うが。

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