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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2004年10月4日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/
「国政の怠慢」

 さる九月十七日、石油連盟は政府の予定を一年九カ月前倒ししてサルファーフリー(硫黄分無し)ともいわれる含有硫黄分一〇PPMの軽油の来年三月からの発売を決定してくれた。同連盟会長がわざわざ来庁されて正式の報告を受けた。首都圏のディーゼルエンジンの排ガス対策や不正軽油撲滅対策を評価し、業界もこれに応えて国民の健康のために努力する決心をしたとのことだった。

 その折、会長も一目見て分かりやすいように、同じサイズの二つの小瓶に入れた軽油の煤(すす)を持参してくれた。片方はつい最近まで先進国の中で日本だけが使用していた硫黄分五〇〇PPMの軽油から排出される煤、それに比べて同じリッターの一〇PPM軽油の出す煤は眺めても見えるか見えぬかくらいの微量でしかない。

 以前、ディーゼル排ガス規制に着手し始めた頃私はテレビ出演や講演の折々、渡文明会長と同じように五〇〇PPMの軽油を使って走る車の出す有害粉塵(ふんじん)をペットボトルに入れて持ち歩き、東京ではこれが一日なんと十二万本散布されているのだと説明して回ったが、目で見る情報の効果は覿面(てきめん)だった。

 一番強い反応を示したのは当時東京で開かれていた世界肺癌学会総会に出席していた外国の専門医たちだったが、それが引き金となって首都圏のトラック業界、ついでバス業界も呼応してくれ、東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏一都三県での広域行政としての規制取り締まりが実現していった。結果は東京に限って見ても、一日十二万本出ていた有害粉塵は五万本にまで減り、個別調査の結果として都内の洗濯物の汚染や車の汚染度もはるかに軽減され、複合感染として蔓延(まんえん)していた花粉症も激減した。これはひとえに中小企業の多い運送業界や石油販売業界の骨身を削っての協力のたまものだ。

 私は今でも実施前の状況視察に赴いたトラック会館の相談受付センターで、私の姿を認めた零細企業の経営者が、思わず、「石原さん、こんなことをやられたら俺たちちっぽけな会社は潰れちまうよ」と大声で訴えてきたのを忘れられずにいる。しかし、彼もまたあの決定に我が身の血を流しながら応えてくれたに違いない。

 ディーゼル規制のキャンペーンの折々に私は、死んだ開高健がよく引用していた詩人ゲオルグの『たとえ明日地球が滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える』という言葉を披瀝(ひれき)して理解と協力を仰いだものだった。

 人間が進めてきた文明が醸し出した環境破壊は、地球の温暖化、皮膚癌やアトピーの蔓延、氷河の溶解による氷河ダムの決壊、南太平洋の砂州でできた国家の消滅等々、もはや歴然とした形で現出している。文明が破壊しようとしているものを防ぐ手立ては同じ文明によるしかないが、しかしその前に不可欠なものはまず、それを超えようとする志に他ならない。そしてその強い意思は、現況への正確な認識にこそ支えられなくてはならない。今回の石油連盟のあくまで自発によるサルファーフリーの前倒し精製はそうした志の発露に他ならない。

 それに比べて環境と健康という国家的課題に関しての国政の対応の鈍さは、許せぬなどというより空恐ろしいほどのものだ。

 昨年、ディーゼル規制を実施して間もなく行われた総選挙で私は親友の西村真悟氏の応援に出かけたが、その折、大阪の大衛星都市堺市の市中で街頭演説していて、国道の交差点に信号の度に止まるトラックやバスの吐き出す排ガスが首都圏に比べて従来通りの汚染度のせいで、演説しながら喉や鼻、目が痛くなるのに改めて気づいた。同じ季節、東京の選挙ではもはや有り得ぬことだったのに。

 これはいかにも不公平な話で首都圏で実績を上げた試みをなぜ国が未だに実施しないのか理解に苦しむ。現在のトラック業界の実態は、全国で運送事業をしている大手の会社は東京に持っていくと規制にひっかかり罰金をとられるような古い車は大阪その他の地域に回し、首都圏へは新型の装置を施した車を回すという算段だ。

 馬鹿を見ているのは国が動かぬために未だにひどい空気を吸わされている他の大都市圏の国民と、首都圏がせいぜいの行動範囲の首都圏内の零細運送会社で、彼等は骨身を殺(そ)いでの支出によって規制に応えてくれたが、全国範囲で仕事している大手はほとんど痛痒(つうよう)を感じていない。そして他の大都市圏の住民は、首都圏に比べて汚れた危険な空気を吸わされつづけているという、極めて理不尽な結果となっている。

 国に依頼しても動かぬので都独自で実験してみた結果、排ガスの有害粉塵に晒(さら)された母体から生まれたマウスの子供は他に比べて運動能力に劣り、回転する輪車からすぐに転落してしまい、他の能力にも格差が見られる。ということは同じ哺乳類の人間にもそれがあてはまる可能性が大ということで、空気の綺麗な田舎と首都圏以外の土地で育った子供には将来健康上のさまざまな格差が露呈してくるかもしれない。

 石油連盟の前倒し協力もそうした事態を勘案してのことだろうが、ここまで来ているのになんで国は全国一律の規制に踏み切らないのか。これは怠慢というよりも現実感覚の欠如、すなわち行政者として失格であり、ゲオルグの言葉が暗示した人間としての志の喪失としかいいようない。

 この国はいろいろな意味で、いかにも危うく頼りない国になりつつある。

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