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石原慎太郎エッセイ「日本よ」

2004年8月2日発売の産経新聞より転載 
産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/
「陛下、お願いいたします」

  敗戦から五十九年目の八月十五日が間もなくやってくる。そしてさらに年が明ければ、六十年という大きな区切りともなる。少年ながら、固唾を呑んで迎えた太平洋戦争。奇跡のような当初の連戦勝利。そしてミッドウェー、ガダルカナルでの敗退、サイパン、硫黄島の陥落、連日の大空襲、特攻隊そして原爆の投下、敗戦。
 降伏調印の翌日のマッカーサーによる、事実を歪曲した日本の無条件降伏という一方的な宣言。怯えきった政府の無抗議無抵抗。以後に行われた、戦時中に勝る為政者による言論統制と、その下で勝者からあてがわれたいびつな憲法。

 そして、強いられた依存のもとでの経済復興という美名の下で、武士たることを捨てての商人国家の形成。その成功が、いびつに歪んで巨大な経済大国を誕生させたとしても、我々日本人はその代償に何を失わしめられたかということを、他ならぬ我が身のために真摯に考えなおさなくてはならぬぎりぎりの所まで来てしまったのではなかろうか。

 かつて高度成長のとば口にあった昭和四十年代にすでに、ノーマン・カズンはこの国を背骨を欠いた巨人と評していたが、隣国の手によって自らの歴史を改竄非難されるままに従い、国土をさえ侵蝕侵犯されても痛痒を感じることもなく、多くの同胞を誘拐殺戮されてもその事実を認めたがらず、それらを防ぐ手立てを講じることもなく、他の国際関係においても剥奪に近い形で身銭の支出を強いられつづけ、他国の命運を左右し得るさまざまな力を実は備えながらそれを国益のための駆け引きに使うことも出来ぬ未曾有の大国こそが、我々の祖国日本に他ならない。

 私は今年も来る十五日に靖国神社に参拝するが、同じ日に詣でる度、年々自分が英霊に伝えるべき言葉を失っていくのに暗澹とさせられる。

 この国の今の態様をもたらしたものの一つに、戦後多くの日本人たちが盲執し絶対化した「平和」なる観念があろうが、我々をとりまくもろもろの現実、いや我が身にすでに起こっている出来事を直視すれば、我々は、それを守るために講ずべき具体的な手立てがあり、それはそう決めれば他国に比べて極めて可能、有効であるということを知り直すべきに違いない。

 一方、こうした自己喪失の中で我々の内なる荒廃は驚くほどに進んでおり、最近日本の社会に氾濫する、幼い世代の手による禍々しい犯罪とそれへの社会的無為には、自らのことながら茫然とさせられる。

 これを見て誰の責任何の責任と問う前に、そのさらに根源にある「喪失」について考えるべきに違いない。それは端的に、いかなる時代、国家をふくめていかなる立場いかなる民族をも超えて、同じ人間の形作る連帯の中で我々がいわばジャイロコンパスの指針として垂直に継承していくべき価値観、その以前にそれを支える垂直な情念の喪失である。

 それはこの風土が培ってきた伝統文化への愛着、それらのアイデンティティーヘの正確な認識、それに発する友情と連帯感、そしてそこからこそかもしだされる自己抑制、自己犠牲をふまえた責任感といった、国家社会という巨きな群れを支え存続させるために不可欠な、本能に近い情念に他ならない。

 それを取り戻すためのきっかけとして最大なるものは、近代国家として日本が初めて体験した敗戦の日に他なるまいに。その日にこそ我々は平和のため同胞に強いられた犠牲の大きさ、貴さについて強く確かに悟りなおすことが出来るはずである。そしてあの大きな戦の大義、白人による世界の植民地支配の打破が、かつてトルコ独立建国の父ケマルパシャがいい、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、そしてマレーシアのマハティールといった優れた指導者たちも等しく認識しているように、日本が挺したそれらの犠牲の上にのみ有り得たということを自覚すべきに違いない。

 その確認こそが日本の真の再生に繋がっていくはずである。そしてその内なる大きな作業のために、敗戦六十周年の来年にこそ、八月十五日に天皇陛下に靖国神社に参拝していただきたいと熱願する。

 昭和天皇は戦後においても過去八回参拝を遂げておられる。その後ことさら靖国神社参拝の是非にからめて、隣国たちからの日本の近代史批判等情勢の変化もありはしたが、今日の日本国民の内的な危機感とその克服への熱望という、外からは見えにくい大きな意識の流れを踏まえれば、日本の元首である天皇が、あくまで一人の日本人としてまず私的な参拝を行われることで、日本人の意識に新しく大きな火が点されるに違いない。

 ちなみに、同じ人間であられる天皇が私的行為として行う参拝は、もろもろの学説は別にして、判例では民事責任の対象となりえないということは確立している。後は天皇御自身、今日の国家社会の態様を眺めて、自らの行為の国家にとっての歴史的効用を考えられての御判断に依るだけである。

 天皇自らが日本人にとって垂直の情念にのっとった垂直の価値観の体現を、参拝という行為で示された瞬間、我々の内にしみじみと、しかし大きく蘇るものがあるはずである。それを眺めれば、歪んだメディアも外国の論評もすべて淘汰され沈黙するに違いない。

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