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「米はエクソシストたり得るか」 |
泥沼化しつつある最近のイラク情勢を眺めると、ふと思いだす、かつて見た映画のあるシーンがある。
映画は当時大反響をまき起こしたハリウッド製の『エクソシスト(悪魔払い師)』。何百年ぶりかでニューヨークに再生した異教の悪魔が少女にとりつき、その悪魔を退治するために神父たちが悪戦苦闘し、最後は自分の体に憑依させた悪魔を葬るために神父が自分の体の中にいる悪魔と刺し違え、自殺して果てるという筋だった。
私はちょうど新しいヨットの進水回航のためにアメリカにいて、造船所のある町で封切られた映画をクルーたちと一緒に見にいったが、開演前に並んでいる観客たちに、この映画に賛成、反対の二派のキリスト教信者たちがそれぞれに神父に率いられて主張のビラを配っていた。私にとってはそれもまた異教の土地で見る異教徒ならではの光景として面白かった。
さて、いまだに治まらぬイラクでの混乱を眺めて私が思いだしたのは、映画の冒頭に、どこか中近東の古い遺跡を発掘していた老考古学者が、作業員たちが土中で掘当て取り出してしまった異教の悪魔の像を前に、「またこうしたお前と出会ってしまったのか。これからまた恐ろしくも厄介な出来事が続いていくに違いない」と慨嘆するシーンだった。
そして映画の中では突然幼い少女にとり憑いた悪魔が次々に不可解、不可抗な出来事を引き起こし、訳を知らぬ市民や、訳を知る神父たちが恐ろしい羽目に突き落とされる。最後に悪魔と刺し違えわが身を殺す神父の献身は劇的だが、その後続編が作られたのを見れば、話の筋とはいえどうも悪魔退治はなまなかなことでかなうものではなさそうだ。
今イラクで起こっていることを眺めるとハンチントンのいった「文明の衝突」という歴史の公理を改めて思いだす。国民を独裁者から解放してやったと自負するアメリカに対して多くのイラク国民の、独裁者への忌避を上回る憎悪と軽侮の根底には宗教を背景にした価値観の衝突、それも一神教の持つ排他性の相克が感じられる。そしてそのさらなる背景に、これも同じ一神教のユダヤ教対イスラムの対立の象徴としての厄介なパレスチナ問題が在る。
いずれにせよ今アメリカが相手にしているのは、千夜一夜物語に象徴される世界最古の文明文化の元に暮らしてきた民族であり、その歴史の長さはアメリカとは桁が違う。ということを、アメリカ側はどれほど意識してかかっているのだろうか。その軽差はいかに現代技術を駆使しての巨大な軍事力だろうととても埋めきれぬ、人間の深い部分、歴史の芯の芯にあるものの問題に違いない。いい換えればそれこそが、歴史というものの重みということだろう。
イラクはアメリカの数百倍も長く深い歴史を持った確固たる文明国であり、豊穣な地下資源によってアフリカなどの開発が遅れている諸国とは違って近代インフラを備えた準先進国であることを忘れてはならない。
今アメリカがかまえている、一見絶対的にも見える優位など人間の歴史全体の流れの中ではわずか一局面のものでしかないかもしれない。アラビアンナイト物語は不滅だが、今日世界を風靡しているかにも見えるハリウッド映画の歴史的価値なんぞ知れたものでしかない。
しかしその一方この日本はかつてアメリカに過剰な自信を培わせるような、歴史を踏まえての文化民族の自主性の価値や意味を疑わしめるような史実を自ら示してしまった。
思いがけなくも手を焼いた挙げくに、未曾有の多量殺戮兵器原爆の投下によってようやく第二次世界大戦を終結せしめた敵国日本の占領統治を、アメリカは当初の予測を上回った容易さで行い、日本人という固有な特性を持つ民族の脱色骨抜に成功した。その所以はいろいろあろうが、一つには、かつて入江隆則氏が指摘していた、一種の汎神論としての神道と仏教に培われた日本人の融通無碍なる価値観のせいと思われる。自己批判としての「我が仏は尊し」という言葉にこめられた信仰における排他性を否む、一神教の世界においては許され得ぬ寛容さといおうか柔軟性が、一億玉砕を一夜にして一億総懺悔に転じさせ、敗戦という処女体験の後の異民族による統治を丸呑みにしてしまったといえそうだ。
それを、今日のイラクにおける文明の衝突ともいえる混乱と比べ是とするか非とするかは、当時の絶対的為政者から拝受した「平和憲法」なる奇体で非現実的な国家の規範を、半世紀を経た今ようやく丸ごと吐きだすことで、独自の文化文明にのっとった真の自立を獲得するか否かにかかっているに違いない。
イラクに起こっていることを眺めながら私が改めて悟らされたことは、いかに巨大な力とはいえ文明の本質までを破壊しきれるものではないということだ。そうした独善は結局思いもかけぬ高価な犠牲を自らにも強いることになりかねまい。絶対的軍事力を背景にした独善が、時として滑稽さにも繋がりかねぬということに、絶対的強者であるが故にもアメリカは悟るべきに違いない。
グローバリズムという画一化は、文化という人間にとって最も根源的なものを冒しきれるものでは決してない。

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