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「時代錯誤な金融政策」 |
先夜あるニュース番組を見ていたらあるエコノミストが金融庁を批判していっていた。曰くに、新しく出来た金融庁なる役所は、それが創設された経緯からしても預金者と投資家たちのためのものかと思っていたが、どうもそうではない。なんだ結局、銀行のためのものかと思ったが、そうでもない。よく眺めると、金融庁なる役所は要するに金融庁のためのものでしかない、と。いい得て妙である。
つまりこれは分割して形を変えただけで、あくまで従来の大蔵省の権限を保持するためのものでしかないということだ。それを裏書きするように、大蔵委員会生え抜きの小泉総理にとっての真のブレインがしょせん大蔵省、今の財務省の役人たちでしかないということは周知のことになってきた。
しかしそれにしてもわざわざ新設された金融庁の姿勢があんなものでいいはずがない。政府は一昨年から従来地方自治体が監督していた、信用組合という末端の地域金融機関の監督権をも中央政府に取り上げ監督に乗り出した。その引き金は、東京の信用組合のかつての不祥事ではあったが。そして、彼等が末端地域の金融機関に押しつけた金融における基準は大方大手の銀行と同じものでしかない。例えば通達されている基準の一つは、企業の会計の数字の字面の上で債務超過している企業には一切融資は許されない。それが仇となって地域々々の零細企業に対する金融はたちまち硬直化してしまい、倒産が続いている。小零細企業の密集している東京の大田区ではすでに、従来八千社在った企業が五千にまで激減してしまった。
信組といったローカルな金融機関と融資を受けている企業の関わりは、決して帳簿の字面の上だけのものではなく、狭い地域での企業主と貸し手側の人間関係を通じての互いの評価と信頼の上に成り立つ場合が多い。しかし当然貸し手側には預金を預かる者としての責任はあるから、いかに情実とはいえ無謀な融資は許されるものではない。がなおそれを、数字だけを構えて大手と同じ一律の基準でくくってしまうということは、地域に密着した群小の金融機関の特性を殺ぎ落とし、地域の零細企業のせっかくの可能性を抹殺しつくすことにもなりかねない。
先日テレビで目にしたある信用組合支店の苦労についてのルポルタージュでは、優れた技術を持ち優れた業績を上げてきたある零細企業と、今までの身近な付き合いから彼等の可能性を理解している信組の支店長と店員たちが、金融庁が新規に構えた基準の中で、役所への報告をいかにレトリックして、企業を守るための融資を続けるかに苦労している様を極めて印象的に映し出していた。
彼等が相手にしている二つの優秀な典型的零細企業は、そこで作っている部品はそれぞれの大手の親会社にとって不可欠のものだ。片やは親子二人、片やは親夫婦と息子三人が働いているが、最近欠陥品が増えてきたためにそれぞれ決心して七、八千万ほどの新しい機械の購入に踏み切った。
資本金がせいぜいニ、三百万程度の有限会社だから、償却を計上すれば機械を購入した瞬間から会社は債務超過となってしまう。そして金融庁が信用組合に通達した金融の規範では債務超過の会社への融資は禁じられている。その制約の中で、日頃よく見知っていて評価もしている相手に、金融庁への報告をいかにレトリック、つまりごまかしてでも融資を続けてやるかという腐心の明け暮れの実態だった。
この期に及んでもなお政府は、日本の従来の担保主義の金融システムを、担保能力以外の企業の可能性を評価して行う融資に変質させるべき複合的な努力を一向に講じてはいない。しかたなしに東京都は独自に、CLOからさらに直接金融に近いCBOの発行という手立てで小零細企業への融資援助を講じてきたが、先に日銀はCBOについての商品価値を正式に認定しもした。やがてはこれをナスダックのような市場に育てたいと思っているが、本来これは国が乗り出して行うべき仕事だろう。
地方分権の時代というのに、地方においての地域性を生かしての金融の監督権までを全て中央集権として国の手に集めて、国家の基幹産業を底辺で支えている中小企業の息の根を止めてしまう金融政策を敢えてとる姿勢は官僚の時代錯誤としかいいようない。私が目にしたそのテレビ・ルポルタージュの最後に大蔵省出身の金融庁大臣は正面切って、金融庁の規範から外れるものはそれぞれの世界から消えてもらうしかないと、冷然といい切っていた。私はそれを驚きをこめて唖然、暗然たる思いで眺めていた。我々のいうことが聞けないなら、勝手に死ねということか。
その一方、問題山積のみずほ銀行への金融庁の指導はなんとも生ぬるい。東京都自身の立ち入り検査で判明した実態を、金融庁はどこまで把握しているのかいないのか、いるとしたら何故にそれを隠そうとするのか。下手をすると「みずほ」の失態は、日本の金融全体の崩壊の引き金をも切りかねない。
いまだにこの日本を牛耳っている国家の官僚たちは、金融における歴史の流れをいったいどう捉えているのだろうか。これを誅する者は政治家しかいはしまいに。

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