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男について

男と女の違いの一つは、男は孤独に耐えられるが、女にはそれが出来ないということではないか

 一匹狼、という言葉がある。この狼の性別は何か。
 一匹狼が、雄であることは間違いない。
 雌は絶対に一匹狼にはなれない。特に人間の女は。
 男と女の違いの一つは、男は孤独に耐えられるが、女にはそれが出来ないということではないか。
 勿論、一人の女はいる。一人で旅をし、一人で生きている女はいる。しかし、一人の女は絶えず誰かを待っている。求めている。それが現実の男でなくても、彼女は必ずそれに代る、彼女にとってはきっと現実性のある幻影を、夢を持っている。
 一匹狼、つまり、一人きりの男はそうではない。彼には、自分以外に誰もいない、幻影すらもない、すべてをしめ出した一人きりの世界が必要なのだ。自分が実際に支配しきれる、自分一人が総てを占めることの出来る独りきりの世界こそが、彼の求めるものなのだ。

『男の世界』(集英社)

男同士の会話の中で聞く他人の過去の体験は、時として、どんな持ちもの以上にもうらやましく感じられることがある

 男同士の会話の中で聞く他人の過去の体験は、時として、どんな持ちもの以上にもうらやましく感じられることがある。それが、彼の持ちものの何よりも彼自身に似合って見える、というのは実は逆で、その過去が現在の彼を男として造り上げているからだ。
 男同士の共感は時として、相手の過去を自分も、類似した形で真似てみたいという衝動を起こさせる。それは決して卑屈な感情ではなし、自分が彼でも、おそらくそうするに違いない、そうする以外にない、という共感のもたらすものだ。

『戦士の羽飾り』(角川書店)

持つべきものは良き友とか、男の友情は、この世で最も美しきもののひとつ、などというが、それなら実際にそんな友人を持つことの出来た男がざらにいるものだろうか

 持つべきものは良き友とか、男の友情は、この世で最も美しきもののひとつ、などというが、それなら実際にそんな友人を持つことの出来た男がざらにいるものだろうか。
 心の友とか真の友情といった言葉は、いかにも膾炙されてはいるが、しかしまた本気でそれを口にすると、どこか気恥ずかしい気がしないでもない。
 少なくとも、僅かでもそれをあてにした気持ちで口にすれば、それは乾いた大地に放り出された海月のようにたちまち水気を喪い風化されてしまうだろう。
 なんであれ、年中友人を頼りにし、友情をあてにし生きているような男に、一人前の男はいる筈もない。
 人間というのは、いかに親しくとも、そう年がら年中意気投合していられるものではないし、特に男の交遊は、親しい女同志のお喋り友だちなどとは違って、趣味的なものにとどまり得ないものだけに、指をからげ手をつなぎ、という形にはなり得ないし、またそんな必要もない。

『バカでスウェルな男たち』(プレジデント社)

男が「男」であることの条件のひとつは

 男が「男」であることの条件のひとつは、その男が、男としての彼自身のお伽話を、何かひとつ、どんな大それたものでもいい、人に見せても見せなくても、他人に語っても語らなくても、心に収って持っているかどうかということだ。
 そして、それをやる意志があるかどうか、ということではないか。

『男の世界』(集英社)

私はピアスを男がしているのを見ると嫌な気がする

 私はピアスを男がしているのを見ると嫌な気がする。女の装身具を男が身につけているのがなんで男伊達なのか、どうしてあれがマッチョなのかと思う。そういうと息子たちにいかにも古いと笑われるが、生理的な反発はどうしようもない。こんなに華美な時代に男がなおその身を飾りたいならニューギニアの原住民のしているペニスサックでもしたらどうなのだ。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

 

人間について

人間が生きるということは他人とかかずり合うことの煩わしさでしかなく、さらに言い換えれば自我の磨耗でしかない

 私は人間の耐性、つまりこらえ性、また言い換えれば我慢の力というものは、人間が人間としてこの人間の社会に生きていくための絶対不可欠の要件だと思う。
 私たちはこの世で生きていく限り、さまざまな不本意に遭遇しながら、結局は我慢をしなければならない。もちろん人生には数多くの満足もあるが、しかしその数倍の我慢が必要とされるはずだ。
 つまり、人間が生きるということは他人とかかずり合うことの煩わしさでしかなく、さらに言い換えれば自我の磨耗でしかない。カミュは「幸福とは、それ自体が長い忍耐である」と言っている。
 つまり、物事に耐えるということでしか幸せは獲得されはしないのだと。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

どれほどの人間が生命的、とまではいわぬにしてもその個性にのっとって生き生き暮らしているものなのか

 人間の存在について、特に自らのそれについて、誰がどのように考えているかは知らぬが、今日我々に与えられている存在の形とはあくまで社会的なものとしてであって、どれほどの人間が生命的、とまではいわぬにしてもその個性にのっとって生き生き暮らしているものなのか。
 それでいながら一方ではかつてのいつの時代よりも生を飽食しているともいえそうだ。それそのものが人間としての遭難といってもいいくらいに。

『風についての記憶』(幻冬舎)

はみだす人間、はみだす出来事があるからこそ逆に、大方の人間が安心してこもっていられる社会の枠が保たれているのじゃありませんか

 そんな上っ面のことじゃなしその下その底の底の、なんというのか、人間の世の中の仕組みに関わることなんです。それがはみ出しであり、大方の人間の人生には馴染まぬことであり、ひどい罰を食うことだろうと、世の中には誰かが他の誰かのためにやらなくてはならぬことがあるでしょう。
 またそれがなけりゃ、世の中平べったいようで実は不公平だし、誰も救われませんよ。
 はみだす人間、はみだす出来事があるからこそ逆に、大方の人間が安心してこもっていられる社会の枠が保たれているのじゃありませんか。
 天命などという大それた出来事だって、結局は誰か一人二人の人間がやることでまず水口が開くんじゃないですか。

『遭難者』(新潮社)

 

恋愛について

男は、何であろうと別れた女を気にするが、女は殆ど気にしない

 男は、何であろうと別れた女を気にするが、女は殆ど気にしない。
 つまり、女は相手が何であろうと、相手と結ばれている今現在、その相手に自分を預け同化しようとすることに幸せを感じる。
 それが愛情における女の現実性である。
 男には、愛に関してどのような現実にも消されぬ、夢のようなものがある。
 男はどんな恋愛をしながらも必ず、もっと違う、もっと充ち足りた他の何かをどこかで期待している。
 それは、女がセックスの恍惚の中で男とその絶対値において、比べものにならぬ快感指数を極めることが出来る、ということでも証されるだろう。
 男と女の間柄に関して、女には、現在しかなく、男には、いつも結局未来しかない。
 女はとどまろうとし、男には放浪への本能がある。
 そのギャップが、男と女の間の喜劇悲劇を生むことになるという訳だが。

『男の世界』(集英社)

女は早いけどねえ、男は、少なくとも半年はかかるからね、忘れるためには」

「女は早いけどねえ、男は、少なくとも半年はかかるからね、忘れるためには」
 空を仰いだまま彼はいった。
「半年も、かかるかね」
「かかりますよ。そして、長いんだよね、その半年がさ」
「そうかもしれないな」
「でも、人間は必ず忘れることが出来るからね。一度忘れてしまえば、また思い出したにしても、もうどうということはないからね」
「折角忘れたのに、また思い出すのはいやだな」
「だいじょうぶよ、一度忘れた後なら。もっともね、僕の友達で、ふられてわかれて、そのままずっと忘れられずにいてね、三年たって女が相手とわかれたらその後その女と結婚した奴がいるよ。あいつは、あれで幸せだったんだろうかな。僕ら、そいつを馬鹿にしてずいぶんからかったりしたものだったけどさ。ともかく、男というのは純なんだよね、女よりはずっと」
「そうかな」
「だって、女はわかれた次の日にだって忘れることが出来ますよ。たとえ、好きでいながら何かでわかれたとしても、次の相手が現われれば、もうその瞬間に前のことを忘れてますからね」

『わが人生の時の時』(新潮社)

落水覚悟で命綱もつけてかからなければならぬ相手の方が、満足も納得もあるだろうに

 終わりがよければすべてがいいというのが人生の我慢とあきらめの原理ならば、風や潮に逆らわれぬ満ち足りた航海などありはしまい。
 男と女の間も同じようなものだろう。場合によったらこちらも帆を縮めたり、落水覚悟で命綱もつけてかからなければならぬ相手の方が、満足も納得もあるだろうに。
 女の方からみた男とて同じことに違いない。

『風についての記憶』(集英社)

 

仕事について

人生における方向転換は、その時期が遅くなればなるほど至難になる

 人生における方向転換は、その時期が遅くなればなるほど至難になる。それを行なうことの方が、死ぬよりもつらい、というより、むつかしいものとなるに違いない。
 四十すぎて、まだ誰も評価してくれない自らの芸術に一生を捧げるために、家族をすて銀行の中堅幹部としての社会的地位をすて、社会的隠遁をすることで芸術に全精力を傾け、やがてはタヒチにこもってしまったゴーギャンのような勇気は、結果論でいえば、正当とされようが、男の人生の節目とすれば、誰しもそう簡単に出来ることではない。

『バカでスウェルな男たち』(プレジデント社)

俺が、他の人間に触れ合い、繋がって生きていくためには、結局自分の仕事を通してしか方法はない。誰しもが同じことではないのか

 人間は各自に生きるがいい。俺とても同じことだ。しかし仕事はその自分とは別であり同時に同じだ。俺が、他の人間に触れ合い、繋がって生きていくためには、結局自分の仕事を通してしか方法はない。誰しもが同じことではないのか。
 人間の世界、国家、民族をふまえた仕事、と言うとあるものはその言葉を大袈裟と苦笑する。しかし、俺は俺の仕事を通じて俺自身をそれらに確かに繋ぎつける確信があるのだ。
 何のためにそれをするか、と言うのなら、人間の、国家の、民族のためとは言わず、俺だけのためと俺は言おう。

『挑戦』(新潮社)

 

家族について

自分を生んで育てた父母との関わり、あるいは兄弟姉妹、そしてまた自分が結婚してつくる家庭、子供、孫という連鎖の輪がどこまでも伸びていくという家族関係の存在や意義を否定することは、どんな理屈をもってしても不可能です

 人間は誰しも他人との関わりのなかで生きています。
いかなる立場、いかなる職掌、あるいはいかなる個性を持った人間であろうと、この社会のなかで人間として生きて いく限り、何らかの連帯、つまり他人との関わりのうちにあるのです。
 この連帯という人間の関わりから、私たちは誰も外れることは出来はしない。
 その連帯の最小単位は、家族です。
 自分を生んで育てた父母との関わり、あるいは兄弟姉妹、そしてまた自分が結婚してつくる家庭、子供、孫という連鎖の輪がどこまでも伸びていくという家族関係の存在や意義を否定することは、どんな理屈をもってしても不可能です。
 子供はやがて長じて仕事を持つ、自活する。
 それは最小限の単位の家族に加えて、仕事を通じてまわりの人間との連帯、つまり社会との関わりを持つということであり、それの重層集積が社会全体のエネルギーとなって国家社会が動いていくのだし、発展もするのです。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

私は自分にとっての分身が初めて誕生した時、つまり私の長男が生まれた時のことを今でもよく覚えている

 私は自分にとっての分身が初めて誕生した時、つまり私の長男が生まれた時のことを今でもよく覚えている。
 覚えている、というよりあの時の、得もいえぬある強い実感について今でも感じ直すことが出来る。それはいい換えれば、人間の「存在」について初めて考えさせられた、というより強く感じさせられた時の印象といえるかもしれない。
 自分がこうしてこの世に在るということは、自分がただこうして生きているというだけではなしに、今ここにこうして見る我が子と、さらにその先この子の子供、さらにその孫にまで、丁度大きな鎖の輪のように繋がった者として自分も在るのだ、そしてこの子もまた、すでに死んだ私の父や、私自身一、二度しか会ったことのない、しかしとても優しく懐かしく印象的だった父方の祖母や、そのもっと前の前の名も知らぬ、しかし確かにこの世にいた、私のためにもこの世に在ってくれた先祖の人々とも繋がっているのだという、どんな感傷も伴わぬただ一途に強い感慨だった。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

ともかく女の性が今日ほど商品化され、女性が自分を対価計算して、女の側の打算で結婚を考えるようになった時代は今までないような気がする

 最近、日本の最高裁が画期的な判例をしめした。それは、不倫に関して責任のある配偶者からの離婚を認めたことだ。この場合には男の有責配偶者に関してだったが、じつはいろいろ世間で聞いてみると最近では、不倫に関しての有責配偶者は女の方が多いようだ。
 女上位の時代というが、男女の結びつきに関してその選択のイニシアティブを取っているのは、今日ではどうやら女性の方であるらしい。まともな男なら、この実態を眺めて下手をすれば女性嫌悪にもなりかねない。
 ともかく女の性が今日ほど商品化され、女性が自分を対価計算して、女の側の打算で結婚を考えるようになった時代は今までないような気がする。
 女の子どもを持たず息子しかいない私のような父親からすれば、親としての私にとってもそら恐ろしい時代が到来したような気がしてならない 。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

何だけは絶対に守るのか、何だけはとにかくはぐくみ育てていくのかという指針を持たぬのは男ではないし、それこそを男の親が語らなくてはならない

 他の動物だったら外敵に襲われた時に家庭のなかで真っ先に父親が刃向かい、母親が子供を抱えて逃げるというのが動物としての天性の姿だと思う。そういうものを同じ動物たる人間の習性として維持していこうとするのは健全な保守ともいえるはずです。
 何だけは絶対に守るのか、何だけはとにかくはぐくみ育てていくのかという指針を持たぬのは男ではないし、それこそを男の親が語らなくてはならない。
 そういう作業を欠いてしまったところに父性なぞ存在し得ないし、成り立ちもしません。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

屈辱に耐えるということは、人間の強さを助長するのです。負けても、このままでは引き下がらないという意志を持てればいいのです

 屈辱に耐えるということは、人間の強さを助長するのです。負けても、このままでは引き下がらないという意志を持てればいいのです。私は自分の子供にも常々そう言ってきました。
 子供の場合なら、百メートル競争でどうしても自分より強い奴がいてかなわなければ、こっちは千メートル走で、あるいは野球なら負けないという思いを実行に移して屈辱をバネに屈辱に勝つ方法もあるはずだ。
 俺は、私は、これなら負けないという技なり術を自分自身で探させることです。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

 

老いについて

世にいろいろ味わい深いものもありますが、自分自身の老いていく人生ほど実は味わい深く、前後左右を眺めれば眺めるほど面白く、味わい深いものはないのです。

 老いを迎え討ち、人生の成熟の時代をさらに成熟させて、人生という劇場の決して短くはない最後の幕をたっぷり味わっていくためには、人生の経験を重ねてきた人間としての意識を構えて、老いをしっかりみつめて味わうことだと思います。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

この日本で顕著なことは六十五歳以上の年配者こそが、可処分所得と可処分時間が一番多い、つまり時間も金も豊富に使える、贅沢が可能な、生き甲斐の多い世代ということです。

『太陽の季節』なる小説でこの世に出た私も今年の九月の誕生日には七十歳となります。太陽のたどる軌跡からいえばもはや斜陽の季節だろうが、何にしろあっという間にここまできてしまったという感があるが、それは誰しものことです。
 しかし現代文明のもろもろの効用もあって、日本人と平均寿命が長くなったというだけではなしに、それだけの長寿に加えて健康な老年が普通のことになりました。六十五歳以上の年代を老年と呼ぶそうだが、七十歳などは昔は古希、古来稀なる高齢ということだったが今ではたいして珍しいことでもありはしない。この日本で顕著なことは六十五歳以上の年配者こそが、可処分所得と可処分時間が一番多い、つまり時間も金も豊富に使える、贅沢が可能な、生き甲斐の多い世代ということです。
 という、平均的にいって恵まれた条件を踏まえて、まさしく老いてはきたが、これからの生涯を、第二の人生などといわずに、人生そのものの仕上げの一番成熟充実した季節と心得て、そのために何と何をすべきかを考えたらいい。そのための時間も財政的な余裕もあるのですから。
 思ってみるとこれからの十年余の歳月ほど奥の深い幅のある、興味尽きぬものはないのかも知れない。どんなドラマでも最後の幕が一番実があり感動的なものなのですから。それを、俺は、私は、もう年だといってあきらめ投げ出すとしたら、それは人生に対してあいすまぬ怠慢としかいいようない。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

誰しも年はとりたくはない。誰しも老いたくはない。しかし誰しも必ず年をとり老いていくのだ。

 誰しも年はとりたくはない。誰しも老いたくはない。しかし誰しも必ず年をとり老いていくのだ。そんな当たり前のことがらを前にしてなんでくよくよしたり、怯えてたり、腰が引けたりすることがあるのだろうか。正面きって向かい合いこちらから仕掛けていけば、こんなにやり甲斐生き甲斐のある人生の時の時は他にあるものではないのです。
 そのためには必ず老いていく肉体の原理と、その兼ね合わせで、かつて若い肉体が作った精神の関わりについて知ることです。それを踏まえて老いに関するさまざまな情報を心得ながら、若い頃にはなかった経験と、それが培ってきた冷静さをもって老いを迎え討つことです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

若い頃私たちはよく、健康な肉体にこそ健全な精神が宿るといわれたものです。それは真理だと思う。

 若い頃私たちはよく、健康な肉体にこそ健全な精神が宿るといわれたものです。それは真理だと思う。だから、それが真理であるが故にもその逆説もあり得るのです。つまり、ある年齢にまでなると今までとは逆に、健全な精神が老いていく肉体を守ってくれるのです。  これは人生の充実のためにも極めて都合のいい、有り難い原理だと思う。なぜならその原理に沿う限り、人間は老いても衰弱することなしにすむのですから。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

しかし肉体への強い意識を抱きながら、肉体の老いとの戦いに必ず敗れていく人間に与えられるものは、気力をも含めて真の成熟など有形無形計り知れぬほど多くのものがあるはずです。

 ヘミングウェイは「勝者には何もやるな」といいました。それでいい。しかし肉体への強い意識を抱きながら、肉体の老いとの戦いに必ず敗れていく人間に与えられるものは、気力をも含めて真の成熟など有形無形計り知れぬほど多くのものがあるはずです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

 

死について

人間にとって最後の「未知」である死について誰もよく知ってはいるが、しかしそれが未知であるが故にも、この自分が死ぬということを信じている人間など実は一人もいはしない。

 人間にとって最後の「未知」である死について誰もよく知ってはいるが、しかしそれが未知であるが故にも、この自分が死ぬということを信じている人間など実は一人もいはしない。
 しかし、信じてはいないが知ってはいる、覚悟もしている。ということで人生は成り立っているのであって、その認識、その覚悟が無ければ人生の中でそれぞれが味わう「愛」も「恋」もありはしません。
 死を前提にして、それらのものが必ず空ろう、色褪せる、いつかは終わる、が故に愛は貴重だし恋も素晴らしい。だからこそ誰しもが不滅の愛を信じて誓ったり、恋のかけがえにすべてを賭けてもいいとさえ願う。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

たとえ百歳を越えている者でも人間は惚けていなければ、まともな意識を持ったまま死ぬ時には、間近な死を意識した瞬間、多分、「なんだ昨日生まれたと思っていたらもう死ぬのか」、と思うに違いない。

 たとえ百歳を越えている者でも人間は惚けていなければ、まともな意識を持ったまま死ぬ時には、間近な死を意識した瞬間、多分、「なんだ昨日生まれたと思っていたらもう死ぬのか」、と思うに違いない。いかに変化起伏に満ち満ちた人生を過ごしてこようとも、いや人生というものははたの目にはたとえいかに平凡なものに見えようと実は当人にとっては起伏に満ちたものであり、波乱に富んだものなのだ。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

なんだ自分はもう死ぬのかという感慨は、いかに高齢であろうと当人の意識がしっかりしている限り、人間は誰しも夭折するというものかも知れない。

 なんだ自分はもう死ぬのかという感慨は、いかに高齢であろうと当人の意識がしっかりしている限り、人間は誰しも夭折するというものかも知れない。つまりその意識においては早く死にすぎるということです。それはいい換えれば死に関する不本意さということで、さらにいい換えれば人間は意識がある限り誰しも即興的に不準備な状態で死と向かい合うということです。
 「死」に関して緻密で見事な分析をしたソルボンヌ大学の哲学教授ジャンケレビッチにいわせれば、死は古くて新しい、準備されつくしていた不意打ち、ということです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

しかし死を意識するということの、「恐れ」以外の効用があるということに案外多くの人たちが気づいていない。

 しかし死を意識するということの、「恐れ」以外の効用があるということに案外多くの人たちが気づいていない。
 それは死というものを恐れの対象として意識しだしたことで、人間の感覚、官能は鋭敏になってきてすべての味覚が鋭いものになってくる。性愛の味わいも食べ物の味覚もすべてが今まで以上に甘美なものになってきます。
 それはいい換えれば、残された、つまり限りある人生の味わいの深さが増すということでしょう。それは決して回避せずにまともに受け止めたらいい人生の公理の一つだと思います。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

死は最後の未知、最後の将来であるが故に人間はそれを恐れるしそれを考え知りたいと願う。

 死は最後の未知、最後の将来であるが故に人間はそれを恐れるしそれを考え知りたいと願う。もし死についての何らかの定義、ある確信を持つことが出来ていたなら人間は迷うことも恐れることも無いに違いない。だから老いを感じるようになったら、目をそらさずに自分の人生の最終点にまぎれもなく在るものについて、それはいったい何なのだろうかと考えてみるといい。そうすることで人間は本物の哲学者にもなることが出来るのです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

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