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教育論

父親が子に伝えるべきものとは

どうも、この現代になればなるほど、家庭の中でも、社会の中でも、父親すなわち男というもののイメージは薄れていくような気がしてならない

 父親というのは、いったい何だろうか。
 どうも、この現代になればなるほど、家庭の中でも、社会の中でも、父親すなわち男というもののイメージは薄れていくような気がしてならない。
 女が強くなり男が弱々しくなっているという現代の徴候について、ある歴史学者は、「戦争をしている国家、民族というものの中では、つねに男が女より優位であり、女より美しかった」と言っていたが、それは人間に関わる、あるいは歴史に関わるひとつの公理かもしれない。
 幸いに、現代の日本では戦争の心配はほとんどありはしないが、そうした極限的な緊張感を失ってしまった、いわばソフト化された文明社会の中で、男と女の位置が転倒し、父親の存在が希薄になるということは、家庭にとっても、人間にとっても、社会全体にとっても、決して幸せなこととは言えないはずだ。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

父性の解釈はいろいろあろうが、教育における父性とは子供をしたたかな強い個を備えた人間に育てていくことだと思います

 父性の解釈はいろいろあろうが、教育における父性とは子供をしたたかな強い個を備えた人間に育てていくことだと思います。世の中はすべて競争原理で動いているのだから勝ったり負けたりの繰り返しで、そんなストレスに耐えられる強い個が欠落していてはとても一人前の大人にはなれはしない。学校なら学校という一つの社会のなかでも当然競争があります。学業もあるし、体育もあって、自ずと格差というものがついてしまうがそれはそれでしかたないし、人の世の当然です。
 ところが奇怪なことに「負ける子がかわいそう」とか「遅い子が傷つく」などの理由で徒競走をやめたり、やっても同じ実力の子ばかり選んで組分けし走らせたり、遅い子を距離の短いインコースを走らせるとか、途中でくじ引きをさせて実力以外の要素を加えるなどの訳のわからないことまでやって、なるべく速い遅いの差をつけないようにしている学校が結構あるというのだからあきれたものだ。

『父なくして 国立たず』 (光文社)

我が家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる

 我が家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる。
 なんといっても父親は家族の支柱であり、その家の主宰者である。かれはその結婚前すでに、男としての個性をもち、それをやがて自分が持つ家に反映し、家をつくり、家族をつくりあげるためにふさわしいと信じて、一人の女を選び、妻にするのである。
 女が男に積極的に求婚するならべつだが、世の習慣が、求婚を男の義務と黙認しているかぎり、女上位などというものはたわごとでしかない。
 家の性格、そこに生まれてくる子孫の性格は父親が与えなくてはならない。その父親は現代の慣習、あるいは法律さえも越えた、自分の個性を十全に表現しきる彼自身の人生の法則を持っていなくてはならぬ。
 それは、その家の家訓となり、家風となり、家族の心の掟ともなる。
 そして、そのおやじの哲学こそが、みずからがその代に主宰する家と家族を、先祖たちにまして、みずからの手で培い、繁栄させ、自分の先代までの祖先ができなかった大きな人間の仕事を、自分でもなし終え、子供たちにしとげさせていくよすがになりうるのだ。
 平凡が美徳のように錯覚されている、この画一化された時代に、画一化された男が、どこにでもあるような人生観を持ち、どこにでもあるような家庭をつくったところで、それがなにになろうか。

『スパルタ教育』(光文社)

たとえば父親がもつその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある

 たとえば父親が持つその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある。
 父親は、その哲学の実践の成果において祖父をしのがねばならず、そして父親の子どもたちは、同じように、その父をしのがねばならぬ。そこにはじめて家族における人間の進歩があり、その進歩が束ねられて、人間の社会全体の発展があり、進歩がある。
 人間の繁栄進歩という巨大なピラミッドをつくる、その拠点である家庭の、さらにその無形の拠点ともなる、いきるということへの哲学を、父親は自分という、たとえ平凡に見えながらも、そのじつはかけがえのない個としての存在への強い自覚のうちに持たなくてはならない。

『スパルタ教育』(光文社)

 

親子関係について

つまり日本の場合には親が子に百パーセントの可能性を信じてかかり、その夢がつぎつぎに破れていくことで、親子関係が百パーセントから減点されていく

 ある心理学者は、日本と西欧の親子の関係をくらべて、日本は減点法であり、西欧は加点法であるといっている。つまり日本の場合には親が子に百パーセントの可能性を信じてかかり、その夢がつぎつぎに破れていくことで、親子関係が百パーセントから減点されていく。
 これに対して西欧では、西欧の近代主義のつくりあげた、よい意味でのエゴイズムから、まず虚飾を捨てた一対一の親子関係、つまり0点から出発し、ことあるごとにそれにプラスを重ねていく。結果、それが五〇点に満たなくとも、それだけのプラスが親子の関係にあったということになる。
 いずれにしても、西欧であろうと日本であろうと、どの親も子どもに期待をかける。しかし期待をかけられた子どもは、その親の血を半分受け継いだ人間なのであって、親の欠点もよい点も受け継いでいることで運命が決まっていくのだ。子どもにしてみれば、そんな血を自分に分かち与えた親に、可能性もない可能性を信じられ期待をされることは、はなはだ迷惑であろう。
 子どもは親の分身には違いないが、しかし同時に独立した一個の人格であるということを、親は心得てかかる必要がある。昨今はやりの教育ママは、子どもの教育に熱中することで、子どもが、自分が分かち与えた血の能力を上回った成果をもたらすと盲信しているのかもしれないが、笑止のさたである。

『スパルタ教育』(光文社)

親は、子どもの生命が危険にさらされたときには、人間のワクを踏み出し、獣にかえってでも、親の本能にまかせて子どもを守らなくてはならぬ

 親は、子どもの生命が危険にさらされたときには、人間のワクを踏み出し、獣にかえってでも、親の本能にまかせて子どもを守らなくてはならぬ。
 しかし、人間であるかぎり、ある場合には、心を押さえても子どもに酷にならなくてはなるまい。昨今の親が子どもに対して過保護といわれる実情は、まったく子どものためにはならない。
 たとえば、日本の親は、自分で転んだ子どもに、すぐあわててかけ寄って手をさしのべる。大きなケガでもしたときならばともかく、一つや二つのすりむき傷のときに、親はおろおろぜずに、むしろ黙って、ひとりで起きあがる子どもを見ているべきではないか。
 雨の出迎えにしても、親には用事があるだろうし、多少ぬれる程度ならば、なにも後生大事にカサをかかえて迎えにいく必要などない。
 転んだ子どもに手をさしのべ、雨がパラつけばカサを持ってかけつける母親が、けっきょくのところ、息子の大学の入試試験につきそっていって、大学の門の外でうろうろし、その息子がまた学園騒動でも起こせば、キャラメルを配るというバカなまねをすることにもなる。
 戦国の昔の武士の親は、戦いに臨んで、よく息子や、残していく娘に、親としては酷な言葉を与えているが、それがけっきょく子どもの目から見れば、ひとりの男として、ひとりの女として、親に対する敬意を抱かせることにもなっている。
 ことあるたびに、このためを思っておろおろする親よりも、むしろ子どもをつき放し、ながめている親のほうが、子どもから見れば、最後にはたよりがいあるものに見えるはずである。

『スパルタ教育』(光文社)

たとえ親が、子どもを十分食べさせることができなくても、なおその貧乏、不自由さのなかで、親は、他人が与えることができないしつけ、教育というものができるはずである

 たとえ親が、子どもを十分食べさせることができなくても、なおその貧乏、不自由さのなかで、親は、他人が与えることができないしつけ、教育というものができるはずである。
 親がいちばん身近な人間として、自分の血を分けた相手である子どもに期待を持ち、願望を託するならば、親は、能うるかぎりのものを、子どもに与えなくてはならぬ。それはまず第一に、子どもの個性を見きわめたうえでのしつけにほかなるまい。
 子どもの教育には、いろいろな方法がある。そして、その方法のなかで、肉親しかできぬ方法とはなにか。それは子どもをなぐることだ。昨今では、学校の先生がどんな理由があろうと、子どもをなぐると必ず物議をかもし、先生のほうが萎縮して、あえてそれを行わない。あるいはまた、子どもの食を減らす、つまり食べさせないで懲罰にするということも、親でしかできない。また、子どもを閉じ込めること、あるいは子どもをおどすことも、親でしかできない。
 親はそういう意味で、子どものしつけ、教育に関しての決定的な切り札を持っているもっとも重要な教師であるのに、その切札を放擲し、いったい、だれになにをまかそうというのか。

『スパルタ教育』(光文社)

強く叱ることが慈悲なのだと自覚できぬ者に教育者を名乗る資格もありはしまい

 敗戦の屈辱の回避に発した日本人の変質はいよいよ来る所まで来てしまったような気がします。家族なり企業組織なり国家なりという、不可避の連帯の中にありながらの過剰な個の主張は、戦後の悪しき所産である悪平等を生み出し、その中での努めることなしの甘えと無責任はマゾヒスティックな他力本願をますます助長して来ました。
 たとえば昨今の子供のわがままぶりにしてもそうだ。試験が嫌だから、運動会が嫌だから、それをするなら死ぬなどという駄々を、なんで、それなら死んでしまえと突き放すことが出来ないのか。それがいえない教育者は所詮保身の故にとしかいいようがない。強く叱ることが慈悲なのだと自覚出来ぬ者に教育者を名乗る資格もありはしまい。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

家庭における父性というものの意味や価値が低下し歪められてきた理由の最もたるものは、家庭での母親と父親の対比が大きく変わってきたということだと思います

 家庭における父性というものの意味や価値が低下し歪められてきた理由の最もたるものは、家庭での母親と父親の対比が大きく変わってきたということだと思います。
あるリポートには母性の肥大化と裏腹に父性の矮小化が現実に進行しているとあったが、大きくなったらお父さんのような人と結婚したい、父のような人になりたいとかつては娘や息子たちは言ったものが、今はその逆になってきたことが統計の数学でも確認できます。  
 その原因が父親自身にないとは言わないが、幼い子供までが父親をないがしろにしているとしたら、やはり子供とはるかに接触の時間が長い母親の責任が過半でしょう。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)


他人を愛することを教える

長幼の序といっても、青年と老人ということになれば、青年のよさ悪さを老人の体験が補い、二つの世代の融合によって、さらに大きな飛躍というものが説かれ得るはずです

 年功序列主義というのは、社会に柔軟性を欠き、社会の新しい可能性、飛躍の可能性を摘んでしまうものです。そうした反省から、民主主義社会の中では、才能、能力に対する黙約があり、能力、才能がある人間は、それに応じた処遇を与えられることになっています。つまり機会の平等主義で、けっして結果の平等ではない。しかし現代では、ともすると能力主義、才能主義が過剰になって、そうした範疇以外での生活、人間関係までが殺伐としてきています。
 長幼の序といっても、青年と老人ということになれば、青年のよさ悪さを老人の体験が補い、二つの世代の融合によって、さらに大きな飛躍というものが説かれ得るはずです。
 私はむしろ年功主義よりも実力主義を好みますが、しかしなお、過剰に普遍化された実力主義というものの殺伐さへのブレーキをして、ある側面で長幼の序の価値がとかれるべきではないかとも思う。

『いま魂の教育』 (光文社)

博愛とか献身奉仕という人間にとって最高の美徳も、まず子供のころ自分にとっての競争者を敬い、友情を感じるという姿勢によってつちかわれるはずです

 博愛とか献身奉仕という人間にとって最高の美徳も、まず子供のころ自分にとっての競争者を敬い、友情を感じるという姿勢によってつちかわれるはずです。
 学校での勉強にスポーツに、子供たちはそれぞれ、親には知られずとも自分の競争者、敵を持っているものですが、そうした相手に敵愾心ではなく友情を持つことによって、どれだけその競走なり戦いが楽しく幅あるものになるかということを、親はいろいろな機会に説いて教える必要があると思います。

『いま 魂の教育』(光文社)

心の通う真の友人が、自分以外の自分であるとするなら、われわれはたとえその友人と2人きりでも、孤独でいる時の数百数千倍の充実を味わうことができる

 心の通う真の友人が、自分以外の自分であるとするなら、われわれはたとえその友人と2人きりでも、孤独でいる時の数百数千倍の充実を味わうことができるのです。
 フランスの画家・ミレーが貧乏のどん底にあえいでいるころ、すでに新進画家だった親友のルソーは名前を偽ってミレーの絵を買ってやったそうな。
 私の友人のことばではないが、人生においての難事の折に、親はすでにみまかっておらず、兄弟は離れて姿もなく、けっきょく身近にいる友人によって救われささえられるということが往々にあるものです。
 そうした心の友は、長じて、いくらあわてて求めても得られるものではなく、やはり子供の折から、友情の価値というものを教えることによって心の友を選び、捜し求めるという人生の姿勢を持たせていかなくてはなりません。  

『いま魂の教育』(光文社)


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