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『十代のエスキース』 石原慎太郎
誰にとっても十代というのは不思議な時代に違いない。人間は実は誰でも祝福されてこの世に生まれてくるのだということを十代の奇嬌さは明かしているが、それを成就出来ないのは周囲もあろうが、結局は当人の責任でしかない。
私はこれらのドローイングを十代の中頃、中学から高校にかけてのおよそ4〜5年の間に描いたが、当時はまだ欠乏が当たり前な、しかしこの今とは異なるなんらかの変化への予感だけは感じられる、いわば今日の消費時代の黎明期、というよりも黎明を予感させる時期といえた。
物にも情報にも枯渇していたあの時代に、それを明かすように、画用紙にこと欠いた私は学校の戸棚にしまわれていた、戦前の生徒たちがかつて図画の時間に描かされた円錐と林檎といった水彩画の中から、裏側の比較的綺麗なものを表面同志張り合わせて新しい一枚の画用紙にしたててそこへ気ままに描きつけたものだった。
そんな時代だったから、高価な油絵の具で高価なカンバスにという作業は一種の贅沢であり、ある選ばれた者たちの資格とさえいえた。だから当時ものした油絵は、一度描いた作品をまた削って表面を白で塗り直し次の絵を描いたものだから、ほとんど残っていない。
残っていてもそれらの作品は今見ればいかにも稚拙なものだが、しかしその元となったこれらのドローイングを眺めると、私は今でも絵を描いているが、今の方がはるかに技術的に上手になりはしたが、しかし一方昔に比べてはるかに劣るというか、以前持っていたものを失ってしまっているのがよくわかる。
それはイメージという、感性のもっとも根源的な果実についてである。
こうしたドローイングを眺めると、物の枯渇が逆になんと豊富なものを育み与えるかということがよくわかるような気がする。あの頃のようにさまざまな予感に満ちた時代はなかったと思う。
思えば思うほど、十代の私は不遜なほど自らに自ら説明も計ることも出来ぬものを望んでいた。だから大学に入り、二十歳の誕生日を迎えた時の密かないまいましさを今でも覚えている。結局俺は十代になにもし遂げることなど出来はしなかったと・・・。
その後私は物書きになりおおせるまで絵を描くことを止めてしまったが、これらのドローイングを眺めなおしてみると、今の自分がなおあの頃に多くものを負うているのがわかる。
私がいた受験高校ではこうしたドローイングを描きたがる生徒の感性は危険な、というより全く無駄なものでしかなく、一番明るいと思う色は黒だなどと本気で答えた私はただふざけて反抗的な生徒としてしか片づけられなかった。
だから私はこの頃流行りの落ちこぼれの先駆者として、どうにも軽蔑しか出来ない学校を一年さぼってぶらぶらしながら絵を描いたり芝居を見て歩いたりし、そのままもう学校へはいかずにすませてしまおうかと本気で考えていた。その頃私を捕らえてはなさなかったものはサンボリズムの詩たちと、シュールレアリズムの絵たちだったが。
大学時代になんの弾みでか小説を書きだしても、私には不遇だった私の十代への(実は誰でもそうには違いなかろうが)さまざまなオブセッションがあって、それがかもしだした幾つかの詩を書いたことがある。それはわずか数年前の自分の、いわば自分自身による解説のようなものだが、いつかなにかの機会にそれを目にした亡き三島由紀夫氏が面白がって、"ロートレアモン風のランボオの流行歌"と評したことが思い出される。
いずれにせよ、これは少年という孤独な生き物が、どんなに不思議でしたたかなものであるかということを明かす私なりの記録である。ここに散らばった、さまざまな、まぎれもなく私自身のものだったかつてのイメージを眺めなおすと、自分が結局その何分の一をも体現出来ずにいることに今さらながら焦らぬわけにいかない。しかしまた、二十歳の誕生日を迎え少年時代と訣別することは誰しも人間の宿命には違いなかろうが。
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『石原慎太郎が十代に描いたファンタジー』
(発行・株式会社青山アートコンサルタンジーより転載)
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